| 2007年3月25日 | ラーマ・ナヴァミ(ご生誕祭) |
ラーマは人がこの世でいかに行動すべきか、国をいかに治めるべきか、人間の完全無欠と道徳をいかに守るべきかを教える最高の模範といえましょう。高い志にもとづく行為、理想的な属性と神聖な思いは、人格の基本をなす特性です。ラーマはこれら三属性の化身そのものです。 ラーマは言葉・思い・行為によって世の手本となる生き方を示しました。ラーマは「真理を語りなさい。ダルマ(正義・義務)を実践しなさい」という太古のいましめを固く守って行動しました。きつい言葉をけっして語らず、ラーマはやさしい言葉ですべての人を和ませました。かれは他の人のきつい言葉に、穏やかに、忍耐と優しさと微笑みをもって対処しました。けっして他の人の私事をせんさくせず、他の人の欠点をとがめたてせず、ふざけたことはけっしていわず、人を傷つけるような言葉をけっして口にしませんでした。各人にとって、ラーマの手本を守り、ラーマのなした数々の高貴な特性をつちかい、ダルマにかなう行為をすることこそ、肝要です。神聖な思いを抱かなければなりません。 |
| ババ(1995.4.9の講話より) |
ラーマ、ラクシュマナ、バラタ、シャトルグナの4兄弟はただの人間ではありませんでした。世間一般の常識からすれば、ダシャラタ王はアヨーディヤの王です。しかしアヨーディアがラーマの生まれた都市だと思い込むのは間違いです。アショック・シンガルがラーマ神の生まれた正確な場所はほんとうはどこなのでしょうかと私に尋ねたことがあります。ラーマの生まれた場所はコーサリア妃のおなかの中ですよ、と私は答えました。そして私はラーマを肉体をもった人間とみなさないようにと言いました。ラーマは遍在なのです。 |
| ババ(2000.4.12の講話より) |
「おまえは、ラーマ様の使命を果たした猿の中でもこの上なくすばらしいお方です。おまえはこのシータの居所を突き止め、ランカ島の街を破壊した偉大な英雄です」ハヌマンの存在なくして、ラーマーヤナはあり得なかったとさえ言えるでしょう。ハヌマンは帰依と全託の誠の体現者です。ラーマの御名が唱えられるところにハヌマンはいます。ラーマの御名とその姿は別のものではありません。ハヌマンはその一体性を体験していたのです。それが一元論の本質です。ラーマの帰依者だと自称し、ラーマーヤナという聖典を繰り返し読んでいるわりには、一体心の中は変わったのでしょうか? 何も変わっていないのです。それでは本当の帰依とはいえず、ただ帰依心を見せびらかしているだけです。ひけらかしや見せびらかしをラーマは認めませんでした。ラーマは実践の中だけに重要性を見出しました。ラーマの理念を正しく理解しなさい。 |
| ババ(2000.4.12の講話より) |
ラーマの意味する本質と働きは、人の内の神と神の内の人の結合です。聴く者のこころを鼓舞するラーマ王子の物語(ラーマーヤナ)は、個人と家庭と社会の三つの倫理律を示します。社会が正しく進歩するためには、家族が幸福で調和し、一体でなくてはなりません。家族が一体となるためには、家庭を構成する個人が犠牲のこころを持たなければなりません。ラーマ王子の物語は個人と家庭と社会を支配する倫理律の手本といえましょう。こんにちの世界の一切の相違と分離の根にあるものは、一体感の欠如です。神を探し求める必要ははありません。神は真理。真理に立脚しなさい。ダルマを実践しなさい。ダルマとはなにか? ダルマは慈善でもなく、この世の物質を贈ることでもありません。ダルマとは、思い・言葉・行為の清らかさと一体性を意味します。こころを神に向けなさい。そうすれば、何もかもうまくゆきます。こころを、はかない物質世界に向けるならば、みじめさを味わうだけです。こころこそ、人にとってもっとも貴重な所有物です。こころがなければ、人は人間ではなくなります。 |
| ババ(1996.3.28の講話より) |
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| 私たちの国ではほとんど馴染みのないラーマ王子の物語(ラーマーヤナ)は、インドをはじめ東南アジアの国々では知らない人がいないほどに最も有名な物語です。文字を読み書きすることができない人でも、この物語を知らない人はいないと言われています。 それは遙かはるか大昔より人々の口伝えに語り継がれ、今なお活き活きと展開されている物語です。主人公のラーマ王子は今でも最も偉大な英雄として認識されています。 サイの帰依者の間で交わされる世界共通の挨拶:「サイラーム(Sai Ram)」はラーマ王子をも指し示すものです。「“ラーム”は純粋な喜悦としてハートにおわす者という意味であり、“サイラーム”は母なる神と父なる神を意味する」と、サイババ様はおっしゃっています。 「サイはラーマであり、ラーマはサイ。」ラーマを讃えるバジャンを皆で歌いましょう! |
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