| 2006年10月1日 |
| ダサラ祭 |
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ダサラ祭は光が闇を滅ぼした日、善が悪を滅ぼした日として広くインドで10日間にわたってお祝いされるお祭りです。 逸話によりますと、古に強力な魔神マヒーシャがおりました。彼らの軍勢は強力で、インドラ、アグニ、ヤマといった神々は天界を追われてしまいました。そこでブラフマ・ヴィシュヌ・シヴァの三大神をはじめ、多くの神々が力を集めてマヒーシャを退治するため女神を誕生させました。それがドゥルガです。 神々の力の結集である美しい女神ドゥルガは、マヒーシャを倒しました。それは光が闇を、善が悪を滅ぼしたことを意味します。 この10日間(9夜10日)はナヴァラトリ(九夜)として、シヴァラトリ同様、非常に大切だとババ様は仰います。 8日目にドゥルガプージャが行われ、9日目(ナヴァーミ)にはマヒーシャを象徴する水牛の肉が神々に捧げられます。そして10日目(ダサーミ)に神々をお送りする式典が行われます。 ラーマの時代、魔王ラーヴァナとの戦いにおいて、ラーマはナヴァラトリ(九夜)の8日目にラーヴァナを倒し、9日目にプージャを行い、10日目にアヨーディヤへ帰還したと伝えられています。 ですから、私たちは自己に内在する光が闇を、善が悪を滅ぼすことを祈願して、女神ドゥルガ、ラクシュミ、サラスワティを讃え、ラーマを讃えるお祭りを行います。 皆さんの参加をお待ちしております。 |
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「Devi(デヴィ)」の語は、邪悪な力を抑止し、浄性の属性を守護するために激性のすがたをとった神聖な力という意味です。非ダルマ、非道徳、非真理のちからが異常に増大し死の舞踊に踊り狂うとき、利己心と利己的行為がはびこるとき、人々が親切心と同情を失ったとき、アートマの機能と本性はシャクティ(力)というすがたをとり激性を帯びて、邪悪な動きをほろぼすために働きます。それがダサラ祝日の真義です。神聖な女神が邪悪な動きを滅ぼそうと激しく怒りに燃えるとき、女神は恐ろしい形相をとります。女神の子供である女たちは紅のクムクム(神聖な紅粉)によって女神を礼拝します。女神は足元に供えられた紅のクムクムを見て、邪悪が滅ぼされたことを確信し、柔和なすがたをとります。「デヴィ」に紅粉を供えて礼拝する意味は、それによって女神のみこころが和らぐことを意味します。ダサラの十日間の祭りのあいだ、邪悪な属性というすがたの悪鬼<ラクシャーサ>は追い出されました。ラクシャーサとは悪魔のごとき人という意味ではありません。人の悪い属性が、ラクシャーサであり、傲慢不遜がラクシャーサです。悪い想念がラクシャーサです。ラーヴァナはラクシャーサの王と記述されました。ラーヴァナは十の頭をもっといわれます。かれは十の頭をもって生まれたのではありません。ラーヴァナとはいったい何者でしょう。そして十の頭とは? カーマ(欲望)・クローダ(怒り)・モーハ(迷い)・ロブハ(食欲)・マダ(プライド)・マークーシア(羨望)・マナス(心)・ブッディ(理性)・チッタ(意志)・アハンカーラ(エゴ)、これらによって十の頭は構成されました。ラーヴァナはこれらの十の属性をもつ者です。人はそれぞれの属性によって、自分がラーヴァナであるかラーマであるかを知ることができます。ラーマは悪い属性を滅ぼす者です。ラーマは悪い属性を滅ぼす行為をしていたとき、激性をあらわしました。しかしラーマの激性は浄性とともにあります。ラーヴァナの十の頭を切り落としたときですらラーマは神の愛を示しました。ラーヴァナは十の頭を切り落とされることによってのみ、罪を償うことができたのです。至高の神が罰を与えるとき、それは過酷に見えるかもしれません。しかし外見から激性と見えるものは、じっさいは浄性なのです。雨にまじってあられが降るとき、雨にもあられにも水がふくまれています。至高の神の激性の行為には浄性があります。それと同様に鈍性の行為にも浄性があります。それは至高の神の行為のなされた時と場所と条件によります。バターは指で割ることができます。しかし鉄を砕くにはハンマーが必要です。至高の神は浄性の者には浄性の態度で接し、激性の性質の者には激性の武器をもって対処します。 人々は神を恐ろしい姿と属性をもつものとして崇めます。しかしそれは正しくありません。神にはただ一つ愛の権化という属性があるのみです。「愛は神。愛は全宇宙に遍満する」といわれるではありませんか。それゆえ、世を世俗的な見方で見るべきではありません。愛の眼を通し世を見なさい。 |
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| (1991年10月18日のご講話より引用) | ||
バラタの国民は太古より「ナヴァラトリ」の祝日を「デヴィ」〈神聖母としての神〉への礼拝として祝ってきました。九日間の祝いのあいだ、ドゥルガ・ラクシュミ・サラスワティを崇めます。ドゥルガ・ラシュミ・サラスワティは、人を魅惑する三つのすがたです。深遠な意味は潜在する三種類の力によって象徴されます。それらは「カルマ」・「ウパーサナ」・「ニャーナ」です。それらの潜在力はその他の名前ももっています。 ドゥルガ・ラクシュミ・サラスワティの真義を正しく理解しなければなりません。この三者は人にひそむ三種の潜在力、すなわち「イッチャ シャクティ」〈意志力〉・「クリヤ シャクティ」〈行為力〉・「ニャーナ シャクティ」〈識別力〉を象徴します。サラスワティは言葉を話す力〈ワーク〉として、人のうちに顕現します。ドゥルガはダイナミズム〈行為する力〉として人のうちに存在します。ラクシュミは意志の力として人のうちに顕現します。身体は「クリヤ シャクティ」〈行為力〉を示します。心は「イッチャ シャクティ」〈意志力〉の貯蔵庫です。「アートマ」は「ニャーナ シャクティ」〈識別力〉です。「クリヤ シャクティ」は物質である身体から発します。それ自体では動かぬ身体に活気をあたえ振動させる力は、「イッチャ シャクティ」です。「イッチャ シャクティ」に波動を生じさせる力は、エネルギー放射の原因である「ニャーナ シャクティ」です。これら三つの潜在力は、つぎのマントラによって象徴されます:「オーム ブール ブワッ スワハ」。「ブー」は「ブー 口ーガ」〈大地〉を象徴します。「ブワッ」は生命力〈同時に、人の良心を意味する〉を象徴します。「スワハ」は放射の力を象徴します。この三つはすべて人のうちに存在します。このように、ドゥルガ・ラクシュミ・サラスワティは人のハートに宿っています。人はややもすると怒りや憎悪等の激性をあらわしがちです。怒りや憎悪は、人を恐怖させるドゥルガの顕現です。歌や詩によって神を讃美することや、それによって発生する好ましい波動は、サラスワティの力を示します。人のこころに生じる慈悲、愛、堅忍不抜、同情などの清らかな属性は、ラクシュミから得られます。 |
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| (1994年10月9日のご講話より引用) | ||
| 「ナヴァラトリ」は「九夜」という意味です。九は、何を意味するのでしょうか?(占星術によれば)九つの「グラハ」<惑星>があります。身体には九つの門があります。深く探究するならば、人類は惑星に依存することがわかります。占星術者は九つの惑星について語りますが、じっさいはただ二つの惑星のみが重要です。それらは「ラーガ(執着)」と「ドゥェシャ(憎悪)」です。 「ナヴァラトリ」のあいだ毎日、三女神の一神を、外的にではなくハートとたましいをこめて崇めなければなりません。身体の行為は束の間です。身体は内なる霊から価値を得ます。それゆえ、身体を神聖な寺院とみなさなければなりません。 「ナヴァラトリ」の祝日のあいだ、悪魔的傾向を撲滅するために、女神を「クムクム(神聖な紅粉)」によって礼拝します。紅粉は血を象徴します。この礼拝は、自分の血を至高の神に捧げ、そのかわりに至高の神から平安の贈り物をうけとることを意味します 「ナヴァラトリ」の祝日は、内なる神を体験するために自分自身のいっさいの不浄を清め十日間神を憶念することによって祝います。祝日の最後から二番目の日は「アーユダ プージャ」<武器を礼拝する>と称されるものに捧げられます。礼拝の対象になる武器とは、人の内なる神の力です。神をこのように崇めるならば、かならず霊的に進歩します。 |
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| (1994年10月14日のご講話より引用) | ||
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