| 2006年7月9日 | グルプールニマ祭 |
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ヴィヤーサ プールニマきょうはグルプールニマ<師に感謝する満月祭>と称されます。しかし、この名称は正しくありません。きょうの日がこの名称で呼ばれるゆえんは、グル<師>のなかに弟子たちからの贈り物を受け取る機会を設けたいと願った者がいたからです。 ヴィヤーサは満月の日に生まれました。彼はこの日、四つの『ヴェーダ』の編纂を完了しました。彼はこの日、18の『プラーナ』の著作を完了しました。時が経過するにつれ、ヴィヤーサ・プールニマがグル・プールニマ<師に感謝する満月祭>と称されるようになりました。 「グル」の真の意味は、「無知の暗黒を追いはらう者」という意味です。 |
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| 「グル」のもうひとつの意味は「属性とすがたの彼方にある者、すなわち至高の霊(ブラフマン) 」という意味です。至高の霊があなたのうちにあるのですから、あなたに教えを説く教師を探し求める必要があるでしょうか? 教えを説く教師にも、彼に教えた教師がいます。教えてもらった「グル<師>」を持たぬ教師こそ、真のグルです。 (BABA 1996.7.30グルプールニマ の講話より) |
| 「グ」は属性<グナス>を超越する者という意味であり、「ル」はすがた<ルパ>を越えた者という意味です。それは神をさします。それゆえ「グル」はブラフマ、ヴイシュヌ、シヴァと讃えられます。神のみが真のグル。その他はすべて、大学で各教科を教える教師のような単なる教師です。「グル」は弟子に「グリ」<目標>を示す者です。ここでいう「グリ」はアートマンの原理をさします。(BABA
1997.07.20グルプールニマの講話より) |
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参考・・「グル」に関する問答〔サティア サイババとの対話(J.S.ヒスロップ著)より引用〕 |
| 私たちには、聖者と呼ばれている人に関して、疑問をもって調べる権利があります。その人がどのような行動をとるのか、なぜ様々なことがそのようであるのか等に関してです。 何人ものグルのところに行くことは、1エーカーの土地を所有しているある男の状況に似ています。彼は、ここを少し掘り、次に新しい場所へと動いてそこを少し掘る、というようなことを繰り返します。とうとう最後に、彼が5フィートの穴を掘った所から水が出てきました。彼が掘った穴の深さは、全部でおそらく30フィートにもなったでしょう。彼は最後に掘った所で水を手に入れはしましたが、あちこち掘った幾つもの浅い穴によって、その1エーカーの土地は台なしになってしまいました。その人が一つの穴から動かずに、そこを30フィート掘ったとすれば、必ず水を手に入れることができたはずです。この1エーカーの土地は霊的ハートを象徴しています。その時、霊的ハートは幾つもの穴によって荒廃してしまいます。穴から漏れが生じるからです。(BABA) |
| Q. | グルとは一体なんですか? |
| A. | グルとは道を照らす光です。しかし、目的地は神です。私たちはグルに感謝しますが、礼拝を捧げるのは神に対してです。最近の人はグルを崇拝しますが、それは大きな間違いです。 |
| Q. | グルが神ご自身であったとします。その場合、事態はどうかわりますか? |
| A. | (笑い)事態は大きく変わります。神自身が自分のグルであれば、何も心配する必要はありません。我が子を愛する母親が子供の世話をするのと同じで、私たちが神を完全に信じて、人生を全託していれば、神はその帰依者の世話をします。一切何も心配しなくてよいのです。本当に、グルは神しかいません。神は内にしかいないのです。外にいる者はグルではありません。彼らは単に何かの先生だというだけです。 グルとは「暗闇を取り除く者」という意味です。神のみが内なる暗闇を取り払うことができるのです。神の恩寵によってはじめて、それは可能となります。 |
| Q. | 私たちは、世界中のあちこちにいる数え切れないほどのグルをどのように見なせば良いのでしょうか? その内の何人かは世の中のためになることをしているように思えるのですが、スワミ(サイババ)は決して彼らをお褒めになりません。彼らは神について話すことが上手ですし、数多くの弟子を持っています。 |
| A. | このような人々が第一にとるべき道は、自分が神を知らないことを告白し、弟子たちに呼びかけて、彼らと共に探求を行い、サーダナ(霊性修行)を実践することです。しかし、彼らはそれをしないのです。彼らは答えをあちらこちらで拾って、レコードをかけるのと同じように情報を流し、それがまるで自分の知恵であるかのように見せかけています。このような人は、自分の息子に対してすら権威がなく、説得することもできません。自分の家族すらも指導できない人が他者を導く人を気取るのです。全くばかげた話しです。 本当のグルは、決して自分がグルであるなどと主張しません。そのような人は自分のサーダナを実践し続け、世間の目に留まらないようにします。彼の生き方を見て、一人か二人の人が彼に従うようになり、何とかして、その人が価値ある教えを開示して、彼らに分け与えるようし向けます。こういう求道者たちはその人から本当の援助を得ることができるでしょう。 |
| 参考2・・・・聖仙ヴィヤーサに関するお話 |
| バラタ(インド)は詩人のなかの第一人者ヴァールミギ(『ラーマーヤナ』の著者)と『ヴェーダ』を編纂した聖者ヴィヤーサの誕生の地です。( 1996年2月18日 シヴァラトリ翌朝の講話より) |
| こんにちいわゆる詩人と称される者は、詩人という語の太古の意味からはまったくほど遠いのです。ヴァールミギとヴィヤーサは苦行によって三属性を超越し、神を体験して過去・現在・未来の時の三相のヴィジョンを見る能力を得て、それにより不滅の詩人となりました。
《訳注:ヴァールミギは、ラトナカラです》 良い人とまじわることによってラトナカラのようなまったく鈍性の人間が浄性の聖者ヴァールミギに変容することができました。 変容のみられる場合、それはつねに神の恩寵が原因です。神の恩寵を受け、神さながらの人と交わることにより、鈍性から一足飛びに浄性にすすむことができます。 (1996.07.03の講話より) |
| 神が近くにいることを体験するために、もっとも容易な道はナマスマラナム、すなわち常に至高の神の御名を憶念することです。聖者ヴィヤーサは、カリユガにおいて神を実感認識するためにハリ(ヴィシュヌ神)の御名を唱えることよりも偉大なことはないと宣言しました。ナマスマラナムは学者にとっても無学者にとっても、金持ちにも貧しい者にも、すべての人にとって最も容易な方法です。(1996.10.3 パドゥカプージャの講話より) |
| 若い人は、国をよくするために働かなければいけません。同じ国の人を助けるのです。聖者ヴィヤーサ〔大叙事詩「マハーバーラタ」の作者〕は、18巻のプラーナ文献〔聖典〕を、ひとことで要約しました。 「人を助けるのは徳のある行為であり、人を傷つけるのは罪である。」 (Paropakarah Punyaya Paapaya Parapeedanam) だから「決して人を傷つけず、すべての人を助けなさい(HELP EVER, HURT NEVER)」これこそほんとうに神を信じ、神にすべてをゆだねる姿勢です。神に帰依するとは、神さまをあがめたり、バジャンを歌うことでは決してありません。そういうことはみんな、外面的なことです。内面が清らかでなければ、そのすべては無駄になります。(2000年2月10日の講話より) |